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中川幹太上越市長と上越市議会の3ヶ月にわたる保身大茶番劇ですっかり忘れ去られている上越市の通年観光計画に対する警鐘

 街を観光で盛り上げる。これは2010年代後半の東京五輪招致決定に伴うインバウンド需要を見込んで地方が一気に観光地化に振り切るよりも前から存在した、地域活性化の一つの「ノウハウ」とされていた。
 ところが全国1700をこえる市町村で観光化に成功したところはほんのひと握りではないだろうか。この点、何を以て観光化に成功したと言えるかの判断基準について、観光収入なのか、観光客数なのかは別れるところ、いずれにしても、誰がどう見ても観光地と言える場所でない限り、安定的な観光客数と観光収入を確保することは難しいように思う。難しいというと、そうした困難を乗り越えるためにやるんだ、という事業者や公共団体が、自らをあたかもサクセスストーリーの主人公に位置付けて、さらに気持ちに火をつけてしまいそうであるが、無理なものは無理ということをはっきり言っておくべきだと思う。

 そもそも観光とは物見遊山であり、その始まりは古く熊野詣とお伊勢参りにあると言われているところ、その場所に行く主目的があって、観光はその副次的な産物として存在しているに過ぎなかった。そんな観光は時代が進むにつれ、観光が余暇の主目的と化して現在の形になっているのであるが、だとすれば移動の主目的になりうるような際立った観光資源がなければ観光地として名を馳せることはできないだろうし、周遊型観光の一部に組み込まれたとしても、ほとんど街として記憶に残らないままであろう。
 際立った観光資源というのは、温泉地、食事、歴史、景勝地(火山などの自然現象が生み出したものならなおよし)、希少生物の生息地、などが主にあげられるが、これらに限られず際立った観光資源というのは、さまざまな分野で特筆すべきランドマークであることは、語義からも素直であろう。これは自らが観光・旅行をする際、何に軸を置いて旅程を立てるかの骨格になるからだ。この点、観光業に携わる人たちは、どうやって観光を盛り上げるかを日々考えていると思われるけれども、彼ら自身が観光や旅行でどういう行動をするかを分析することを忘れてはいないかと思うような、そんな事業が特に当地の上越市では散見される。ほとんどの街で観光業がうまくいかない理由はここにあるのではないかという気がしている。それは、考えている人たち自身、が純粋に楽しむための余暇活動としての観光や旅行をしないからではないだろうか。観光客をもてなす側が旅行者の気持ちに立てていないからです。
 旅行者の気持ちに立てていないと言えば、最近はゲストハウスも随分小綺麗になってしまった。ゲストハウスやライダーハウス、ユースホステルなどの簡易宿所は、昔は経営者やスタッフも旅が好きで、旅人との交流が好きで始めたところが多く、経営者が旅の醍醐味を知っているからこそ個性的で尖ったものも多く、そういった宿に泊まる楽しみがあった。ところが、上記のインバウンドバブル期を境に、どうやってお金を落としてもらうかという点に舵をきり過ぎた結果、どこも清潔感があって、アメニティもホテル並みに揃えられて、その結果、利用者側もサービス中心で品定めをしていることもあるのだろう、上記の従来の簡易宿所がどんどん淘汰され、どこも似たような、均質化した、チャラチャラした施設に取って代わられたのだ。これは商店街イオンモール理論と同じである。非常に退屈である。残念である。心に引っ掛かりがないから、記憶に残らないのだ。貧しい旅である。 
 また、コロナ禍を境にドミトリーという相部屋が廃止され、騒動が落ち着いた現在も再開されないところも少なくない。これもまた旅人の交流という魅力が減殺された点であろう。この点、ライダーハウスはさらにマニアックな世界なので、まだ旅情が守られているところはあるが、最近私がゲストハウスに宿泊する機会が減ったのは、ほとんどホテルと変わらないこうした均質化された空間であるならば、さらに安くて完全個室で、すぐに街に飲みに行ける好立地で駐車場も併設もしくは近くにあって、システム化されているビジネスホテルでもよくないか?という結論に達したからであろう。青春時代の思い出が壊されていくようで我慢ならなくなったおじさんの愚痴と言われればそれまでかもしれない。私はいい子いい子した空間が好きではないのだ。
 私は細々と、気分で民泊をやっているが、民泊が全国で解禁されてから6年が経ち、副業の時代にはすっかりビジネスに組み込まれてしまった。私は家主滞在型民泊なので、私が暮らす家に一つ屋根の下で一夜を共にする(というと語弊があるが、長細い町家なので完全に離れています)わけであるが、どこからきたのか、とか、どういう旅程なのかとか、そういう話を酒を振る舞いながらするのが好きでやっている。私も旅人だからだ。ところが最近の民泊といえば業者を立てた家主不在型民泊で副業の手段としてなされるものが多い。そこには旅情も人情も、現地の人との触れ合いもない、ただ夜を明かすだけの無機質な空間である。
 さまざまな事業や分野には領域があって、そこに出入りする人の属性や個性というものは、言語化はできないがなんとなく傾向があると考えているので、ビジネス目的の手段としての民泊は、入ってきちゃいけない人たちが入ってきたという印象を受ける。
 入ってきちゃいけない人たちが入ってくることで文化が壊されていく。これを「規制緩和はいいことだ」と曰う政治家がウヨウヨいるのが平成令和の日本である。規制を緩和した結果、守られていた人たちが淘汰され、財力のあるものが勝ち、そうでないものは財力がないことの自己責任として捨てられる。私の民泊は利益度外視で今後も続けていくのでこんなものの巻き込みは食らわないのだけれども、鉄道や(今後は道路も?)、電気ガス水道郵便などのインフラが自由競争にさらされてはいけないのと同様に、金銭化することができない価値を自由競争に晒すことはあってはならないのである。街の魅力は生活者の満足度や思いという非金銭的価値にあるところ、街に溶け込んだ文化やその街固有の実物資源は保護されなければならず、自由競争にさらされてはいけないのだ。
「観光」により、小規模な、観光に向いていない街に人が溢れ、街が壊される。観光が地方創生になると偉い人は言うけれど、観光が街を壊すのであれば、地方創生とは地方の街を壊すことなのだろうか。極めて皮肉であろう。

もうすぐ旅に出ます。さらに感性を磨いていきたいと思います。

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